核をめぐる科学文化

モロニーの見た広島

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この写真の人物は、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)の医師として広島に滞在し、所長代理も務めたウィリアム・C・モロニー(William Curry Moloney)です。

モロニーは、アメリカのマサチューセッツ州ボストンに1907年に生まれました。タフツ大学で医学博士号を取得した後、1934年から1974年に退職するまでタフツ大学医学部で教え、1998年にこの世を去りました。彼が広島に滞在したのは1952年から1954年まで、円熟期を迎えた40歳代半ばのころでした。

モロニーがABCCに赴任した頃、被爆者をモルモット扱いしているというABCCへの批判が広島で表面化していました。モロニーはそのような中、親切なABCC医師として振る舞いました。例えば1953年9月19日の『中国新聞』では、モロニーが原爆症に苦しむ少年のために、まだ市販されていない特効薬「アミノプテリン」を提供したことが「「原爆症患者とABCC医師」のうるわしい話題」として報道されています。

冒頭のモロニーの写真は、1953年に山脇卓壮という広島の医師によって撮影されたものです。広島赤十字病院に勤務していた山脇は、原爆被爆者に白血病が多いことをはじめて見抜きました。山脇とモロニーは、1954年に被爆者と白血病の因果関係を論じた共著論文を発表しています。モロニーの残した資料からは、モロニーが山脇にクリスマスプレゼントを送り、山脇からは年賀状を送ったことなど、彼らの交流の一端がうかがえます。

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この写真は、1953年11月、比治山から広島市内を撮影したものです。よく知られているように、広島市を見下ろす比治山の上に、ABCCは拠点を置きました。ABCCは広島市民に、被爆者を見下ろす、冷たい科学のイメージを植え付けました。

私は、ABCCの医師やスタッフの多くは、悪人ではなく優しい心を持った人達だったと思います。しかし、彼らの日常は、被爆者の日常とはかけ離れていました。広島市民とABCC関係者の間には、生活や文化における大きな隔たりがあり、そのことによるABCC側の配慮の足りなさが、被爆者の感情を逆なでしたことは想像に難くありません。

被爆者の調査・医療をめぐる問題を考える上で、対立構造が生じた背景を、両者の視点から検証していく必要があると考えています。

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ABCCの医師やスタッフたちがどのように感じていたのかを伝える資料が、アメリカのテキサス医療センター図書館に残されています。これらは、ABCCで遺伝研究を行っていたウィリアム・シャル博士が中心となって集められたもので、その中でも第1級の資料が、モロニーの手記です。

この貴重な資料は、デジタル化されて公開されています。

http://digitalcommons.library.tmc.edu/moloneyjournal/1/

MS#73 WILLIAM C. MOLONEY, M.D., PAPERS; 1952-1954

モロニーの手記からは、彼が広島で何を見て、感じたかの一端を知ることができます。(このブログ記事では、モロニー資料の中から、その断片を紹介しました)

さて、私は明日から、テキサス医療センターにABCC関連の資料を見に行ってきます。どのような資料に出会えるでしょうか。どきどき。。

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投稿日: 2015年1月18日 投稿者: タグ:

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